農業クラブ 意見発表 県大会、中国大会 優秀スピーチ

農業クラブ 意見発表 県大会、中国大会 優秀スピーチリスト

  • 「山に生きる」 意見発表県大会「環境区分」最優秀賞、中国大会:優秀賞 受賞
  • 「命の意味」 意見発表県大会「食料・生産区分」優秀賞、ベストスピーチ賞 受賞
  • 「私の夢」 意見発表県大会「文化・生活区分」最優秀賞、中国大会:優秀賞 受賞

「山に生きる」

私が生まれ育った島根県江津市跡市町は、四方を山に囲まれた緑豊かな田舎町です。春は新緑が眩しく、夏は蛍が飛び交い、秋は木々が紅葉し、冬にはあたり一面、銀世界になります。今年75歳になる私の祖母はこんな山里で暮らしています。私の家には先祖代々受け継がれてきた山があります。祖父がなくなる5年前までは牧場をしていましたが、今は牧場をやめ、山はそのままの状態で残っています。祖母は毎年、節分やお盆前になると、シキミを採りに山に入ります。昔、山に植えておいたシキミを必要な分だけ切り取って商品として出荷するのです。時々私も手伝いますが、決して楽な仕事ではありません。夏は虫の刺されますし、冬はとても寒いからです。木に登ってノコギリで枝を切り落とすのが私の仕事ですが、不安定な足場で、左手で枝を持ち、右手でノコギリを引く作業はとても大変です。木の切りくずが顔にかかったりもします。それでも私が手伝うのは、もちろんお小遣いがもらえるから、ということもありますが、何よりも、祖母が喜ぶ顔が見たいからです。私の両親は祖母の隣の家に住んではいますが、山の仕事には無関心です。だから、私が手伝うと祖母はとても喜んでくれるのです。こうやって一緒に山をまわるのですが、祖母は時々こうつぶやきます。「先祖代々受け継いできた山だから生きているうちにちゃんとしたいんだけどねえ」と。

現在、山を管理する人がどんどん減ってきています。過疎化・高齢化が進んできたからです。私自身、山を相続して、きちんと管理していくのか?と問われれば、答えはすぐには出せません。なぜなら、自分一人の力でこの広大な山を管理していく自信がないからです。樹木の枝打ちや間伐、車道にはびこった雑草の草刈りなど、この大変な作業に対する経済的な見返りもあまり期待できません。こういったことが山の後継者不足を加速させているのではないでしょうか。昔なら、先祖代々受け継がれてきたものは、その子孫が受け継ぐのが当たり前でしたが、今は違います。この伝統が失われたために、荒廃した地域が島根県にもたくさんあります。人が住むことができるギリギリの状態を意味する「限界集落」という言葉も聞くようになりました。整備されずに放置された山には、将来、災害を引き起こす危険箇所がたくさんあります。近年、クマやサル、イノシシによる被害が報告されることが多くなりましたが、これも荒れ果てた山と無関係ではないはずです。それではこのような危機的状況にある山を、私たちはどうすればよいのでしょうか。
私は高校1年生の時、中国山地の山あいにある「島根県中山間地域研究センター」に行きました。中山間地域とは、都市的地域と山地との中間に位置する地域のことで、島根県のほとんどの地域がここに含まれます。この研究センターでは、農林産物の生産や地域住民の生活の場であるとともに国土保全などの他面的な機能を担っている中山間地域の活性化を図るために様々な研究がされていました。具体的には、環境対策や鳥獣対策、森林対策や木材利用対策などです。私は、ここに荒廃した山を復活させる処方箋があると考えました。山を所有している人の個の力には限界があります。やはり、地域の住民が協力して、様々な研究成果を活かした取り組みをすることが必要なのではないでしょうか。このセンターには、理想を高らかに宣言した「生命地域宣言」というものがあります。要約するとこのようなものです。「中山間地域は、私たちの生命地域です。20世紀は都市の世紀でした。多くの人々が自然豊かな緑の大地を離れ、日々暮らすようになりました。しかし生命を育む地域のことを忘れた文明は、行き詰まろうとしています。21世紀、『奪う』暮らしから『育てる』暮らしへ。中山間地域から新しい生き方を始めませんか。」というものです。この宣言に私は強く共感しました。今の自分のことばかり考えるのではなく、未来を考えた生き方をしなければならないんだと。

私は高校を卒業してから大学に進学し、自然環境について多くのことを学び、最終的には地元に帰り、山を再生したいと考えています。野生動物とのほどよい関係を維持した奥山、きちんと整備され、山の恵みをもたらす里山、そこに息づく活気ある集落。こんな「山に生きる」生活が私の理想です。このような地域づくりができれば、祖母などの高齢者も将来に不安を感じることなく生き生きと心豊かに暮らすことができるのではないでしょうか。夢のような話かも知れませんが、私は今ここに、「山に生きる」人生を高らかに宣言します。

これで、発表を終わります。

「命の意味」

今、私達がこうして生きているのは決して当たり前なんかじゃない。今、こうしている間にも人間が生きていくために産まれて死んでいく命があるのを私達は本当に理解しているのでしょうか。私自身、高校に入るまでは考えもしませんでした。しかし、出雲農林高校動物科学科に入学し、牛の世話をしていく中で、少しずつその命と向かいあえているのではないかと思えるようになってきました。きっかけは、課題研究で世話をしているワカツキサンという乳牛の分娩と東日本大震災でした。

「ワカツキサンに人工授精したぞ!!」という声を先生から始めて聞いたとき、ワクワクしたのと責任感が増したのを覚えています。受精していれば、出産までに牛は280日の期間を要します。それまで、私達、課題研究チームはワカツキサンが無事に出産できるように毎日交代で観察し、体温等を記録することにしました。予定日が近付くにつれて、お腹が大きくなっていき、これから自分の目の前で新しい命が誕生すると思うと、嬉しくて、ドキドキしながらワカツキサンの出産を待っていました。

4月26日予定日より1週間ほど早く陣痛がきました。羊膜が破れて足が見えたときは何とも言えない気持ちでいっぱいでした。先生の指示を受け、何人かで引っ張り出し、大きな仔牛が出てきました。すごく安心したのと同時に、心配になったことを今でも覚えています。それは、なぜかというと仔牛がぴくりともしなかったからです。すぐに先生達とワラで体を拭いたり、ゆすったり、声をかけたりしたのですが、全く反応がなく、頭が真っ白になっていきました。この時、私は体を拭いたり、なでてやること以外に何もできませんでした。自分の手から伝わってくる仔牛の体温が少しずつ下がっていくのが分かり、何かしてやりたくても、何の技術もなく、自分が無力だと強く思いました。その後、仔牛が反応することはありませんでした。母牛は、私達と仔牛に背を向け、立ち上がろうともしませんでした。仔牛がこうなることが分かっていたように・・・。1年近く自分のお腹にいた命が死ぬ。少しの間も母牛と過ごすことができない。そんな母牛と仔牛のことを考えると、苦しくて、悔しくて胸がいっぱいになり、涙が溢れてきました。そんな感情と共に、母牛と仔牛を悲しみに追い込んだのは私達人間ではないかと思いました。人間が生きていくために、人間の都合で産まれてきて、そして死んでいったのです。元気に産まれてきても、狭い狭い場所に閉じ込められ、最後には肉となります。牛は私達人間のために命を落とします。けれど、私達人間が牛のために命を落とすことなどありません。理不尽だけど、生きていくためには、命を頂くしかないのです。それなのに好き嫌いをしたり、食べきれないといって、私達人間のために犠牲になった命を捨てたりしていいのでしょうか。牛をはじめ、豚や鶏などの産業動物の命に支えられ、生かされているのです。そして今までの私達人間を生かしてくれた命にどれほど感謝しなければならないのか。これから、私達人間を生かしてくれる命がどれほど大切なのか。この2つを忘れてしまっては絶対にいけないと思います。

また、今回の東日本大震災でも沢山の人が被害に遭われ、言葉にできないほど大変で悲しい事だったと思います。しかし、それと同時に行き場のない産業動物達はどうすれば良いのでしょうか。人間と犬や猫のペット達には救助活動が行われています。しかし、立ち入り禁止区域の産業動物達は狭い囲いの中で餌も与えられず、死んでいきます。そして農家の方々の悲しみもとても大きなものだと思います。いずれ肉になるからといって可愛がらないわけがありません。1頭1頭に名前を付け、愛情を込めて今まで育ててきた牛達に餌を与えることすら出来なくなるのです。こんなことがあっていいのでしょうか。どうにかしたいけど、高校生の私に助けてあげることはできません。だから、今、私にできることは自分の目の前にある命としっかりと向き合っていくことだと思います。1頭1頭に愛情を込め、感謝の気持ちを忘れることなく、ありがとうの思いを込めて育てていきたいです。
最後にひとつだけ、みなさんに考えて欲しいことがあります。食事を前にしたとき、今から頂く命がどんな思いで死んで行ったのか。私達のためにどんな思いで犠牲になったのか。そして、「いただきます」「ごちそうさまでした」を忘れないで下さい。この言葉は、産業動物と向かい合う第1歩の言葉だと私は思います。今生きているのは当たり前なんかじゃない。生きているのではなく、生かされている。

しっかりと心に受けとめていきます。

「私の夢」

あなたの将来の夢は何ですか?私の夢、それは養護教諭です。人に私の夢を話すと「養護教諭は農業高校からは難しいよ」とほとんどの人から、無謀な挑戦だといわれます。

私は過去に、部活動での友人関係について誰にも言えない悩みを抱えていました。そのせいで、今まで大好きだったはずのバレーボールも、いつしか大嫌いになっていました。この悩みは、親にさえ話すことができませんでした。ただ、なぜか保健室の先生にはほんの少しだけでしたが話すことができました。そして、保健室の先生に打ち明けることで、私の心が随分と軽くなったことを覚えています。そのときから、養護教諭になりたいと考えるようになりました。

養護教諭になるためには、大学へ進学し、教員採用試験にも合格しなければなりません。しかし、出雲農林高校では、普通教科を学ぶ時間が普通高校に比べてとても少ないです。これらのことを考えると、普通高校から進学する人に比べて大きなハンデがあります。

そこで、私と同じような考えの人はいないだろうかと調べてみました。すると、農業高校から養護教諭の資格を取られた方と出会うことができました。その方は農業高校を卒業後、一年間予備校に通われた後に、大学へ進学されました。私は、どのようにすれば自分の夢を実現させることができるのか聞いてみました。すると「生半可な気持ちや努力ではなれないよ」と、いきなり私の想像をはるかに超えた厳しい回答が返って来ました。また、それに対してどのようにすべきかも教えてくださいました。その中の一つとして「今、自分にできることをできる限り続けていく習慣をつけてください」と言われました。そして、最後に「諦めないで。どうしてあなたは養護教諭になりたいか考えてみてください」とアドバイスも頂きました。私はもう一度、自分自身を振り返ることにしました。養護教諭になろう、と決めてからの私は、どのような養護教諭になりたいのかじっくり考えたことがなかったからです。

以前、養護教諭についてインターネットで調べていたときに「保健室に行くと安心する」「親には言えなかった悩みだけれど、保健室の先生には言えた」「イジメを真剣に考えてくれた」といった書き込みを見つけました。私は、生徒の身体の健康は勿論、心の健康も支えられる養護教諭になりたいと思いました。生徒が気楽に来室でき、安らげるような保健室の先生になりたいです。

高校一年生の冬に中学校に行きました。そこで、保健室の先生に、私の夢について話しました。すると先生は、机に飾ってある花を指さして「何で保健室に花が飾ってあるか分かる?」と聞かれました。そのころの私は、保健室の先生はガーデンニングに興味があるのかな?とぐらいにしか思いませんでした。しかし、先生からは「花があるだけで部屋の雰囲気が違うよ。花には人それぞれに感じ方はあるけれど、気持ちを癒してくれる」と言われました。先生の話を聞き、私は嬉しくなりました。このとき、初めて私の夢を理解してくれる人に出会ったからです。

私は今、フラワーアレンジメントにも取り組んでいます。先日、フラワーアレンジメントの授業で、雑草を生けるという内容の作品制作を行いました。今まで、気がつかなかったけれど、「雑草って、こんなにも綺麗なものがあるんだって」このとき初めて気がつきました。私は、このときの作品のタイトルに『道にある小さな幸せ』とつけました。そして、私は気がついたのです。少し、視点を変えることで今まで見えなかったものが見えてくることに。私は、植物に詳しい、人の気持ちが分かる、そんな養護教諭になりたいです。

人生は一度しかありません。その一度しかない人生だからこそ私は挑戦します。私は今、自分にできることを精一杯努力します。そして、植物に詳しい、生徒の心と健康を支える養護教諭になるために、島根県立大学看護学科への進学へ向けて日々努力していきます。

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